(まだ少し荷物が残っているから、正確には引っ越している最中だ。)
残りの荷物を片しながら、少しずつ、この街にお別れをしていこうと思う。
1番の心残りは、チビのことだ。
なぜその猫が、「チビ」と呼ばれていたのか、近所の子どもたちが「チビ、チビ」と呼んでいたから、私も「チビ」と呼んでいたが、さっぱりチビではなかった。むしろ、小太りで、猫のくせに全く締まりのない身体つきで、お腹のお肉なんて、たぷたぷしていた。大方、子猫の時に、適当につけられた呼び名だろう。子猫はみんなチビなのに。
チビは、やけに人なつこい猫で、私が通りかかると(誰にでもしていたのかもしれないけれど)「にゃあ」と鳴いて、腹を見せた。初対面だった。
それから私は、用もないのにその道を通るようになった。
毎回会えるわけではなかったが、チビはいると必ず「にゃあ」と言って、腹を見せた。
時には、帰ろうとする私の靴を踏んで、「まだいいじゃないの」と引き止めた。
チビは雉虎なので、少し離れた場所にいると、道路と同化して分からなくなる。そんな時チビは、遠くから出来る限りの大きな声で、息が続く限り長く「にゃ〜〜〜〜」と鳴き、自分の存在をアピールしながら、締まりのない身体で駆け寄って来た。呼ぶと寄ってくる猫はいるけれど、駆け寄って来る猫なんて、見た事がなかった。可愛かった。
チビは、私のかごバックが大層お気に入りで、おでこを当てつけたり、身体をすり寄せたり、時には舐めたり、噛んだりした。無粋な話だけど、そう安いバックではなかったし、お気に入りのバックだったけど、私はチビのやりたい放題にさせた。バックに戯れるチビを見ていると、幸せな気持ちになった。
だから、もうすぐ冬が来るというのに、私は未だにかごバックをしまう事が出来ずにいる。「季節外れな人ね」と思われているかもしれない。でも持ち歩かずにはいられない。どうせいなくなってしまうのだから、いなくなってしまうまでは、使い続けようと思う。
ここ数日、雨が降ったりやんだりで、チビに会えない。
もう1度、ちゃんとチビに会って、バックで遊ばせたい。
引っ越しが済んだ後も、会いに来る事は出来るけれど、その時チビがいるかどうかは分からないのだ。
タイミングが合わなくて、もう2度と、会えないかもしれない。
それに、会えたとしても、チビはもう私のことなんて、忘れてしまっているだろうから、あの「にゃ〜〜〜」という鳴き声は、聞けないかもしれない。
あの鳴き声は、「ゴハンをちょうだい」でも「遊ぼう」でもなくて、ただ「いるよ、いるよ」と言っているのだと思う。
新しい土地で、新しい猫と仲良くなって、その猫のことを、チビと同じくらい大好きになるかもしれない。
でも、鳴き声を聞くたびに、「あ、これは『いるよ』じゃないな」と思うのだと思う。
もっとずっと時間が経って、チビの事を忘れてしまっても、猫の鳴き声を聞くたびに、何か引っかかって、でも何だったか思い出せないような、そんな気持ちになるかもしれない。
引っかかることすら、なくなってしまうのかもしれない。
今は、それがとても寂しくて、こうして書いているのもまた別の方向から寂しくて辛いのに、忘れたくなくて、書いている。自分が飼っている猫でもないのに、バカみたいだと思うし、真面目な内容になってしまって、ほとほと恥ずかしいのに、覚えていたくて、書いている。出来る事ならふざけた内容にしたいのに、こんな風になってしまった。
今日も、「今日こそは会えますように」と祈りながら、あの道を通ろうと思う。