それは、よく言えば「共感」する力、とか、「共鳴」する力、なのだろうけれど、悪く言えば、自分から巻き込まれて行く不安定さ、ということになるのだろう。
その話が、明るい話だったなら、それはそれで円満だ。
でも、辛い方の話だったら。
私は鳥肌を立てて、一緒になって辛くなって、ぐったりして、底なし沼にはまったみたいに、しばらく沈んで這い上がれなくなってしまうのだ。
それは、寄り添っているようでいて、本当は引きずられているだけだ。
誰かが一緒になって悲しんでくれたら、一時は救われた気持ちになるかもしれないけれど、本当の救いというのは、自分はしっかりと岸に立って、決してそこから動かないで、時間がかかったとしても、泥の中からひっぱり上げてあげることではないだろうか?
それには、きっとものすごい強さが必要なのだろうと思う。
今、「共感する」という方法で、一時的にその人を救うことは出来るし、そうした方がどんなにか楽だと思う。
一緒になって沈むことは、それはそれで結構きついのだけど、動かずにいる意志力に比べたら、だいぶ楽だ。でもそれこそが、一緒になって辛くなっているようでいて、所詮は擬似体験をしているにすぎないという、何よりもの証拠なのだと思う。
ギリギリまで近づいて、それでも岸に立ち続けるには、とてつもないエネルギーが必要だ。一歩間違えたら、それは狡さになってしまう。ただ見ているだけの、卑しい人になってしまう。
でも、正しいやり方で、ちゃんとそれが出来るようになったら、また違う景色が見えてくるのだろう。
今日のお天気がこんなんでよかった。
晴れていたら、こんないいお天気の日に、何してるんだろう?と思ってしまったと思うから。
晴の日も、曇りの日も、風の日も、雨の日も、雪の日も、それぞれに必要で、大切だと思った。
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